高松大空襲

  1945年(昭和20年)7月4日未明、私たちの住む高松市に、米国爆撃機B29の来襲を告げる「警戒警報」、続いて「空襲警報」が発令されました。

警戒警報は、敵機が遠いところ、空襲警報は、敵機が近いところにいる、という通報です。

警戒警報は、長くゆっくりとしたサイレン、空襲警報は、短く、早く繰り返すサイレンです。

 

 空襲警報発令直後は、B29の爆音は聞こえませんでした。

市街地の襲撃は、焼夷弾によるもので、空襲と呼ばれていました。

焼夷弾は、日本の家屋のほとんどが木製であることから、破壊ではなく、火災を目的に日本爆撃用に特別に開発された爆弾です。

 ちなみに、欧州の戦争では、もっぱら、破壊用の爆弾が使われていたようです。

爆音が聞こえなかったのは、警戒を与えないよう、上空で、エンジンを止めて滑空していたからでしょうか ・・・・。

 

 しかし、突然、大爆音と共に、町中に火の手が上がり、家屋が燃え上がりました。

あっという間に、町中が火に覆われました。

そして、全てが灰になってしまいました。

一瞬の出来事、不意打ちの様相、でした。

 

空襲の後、狭い自宅跡には、10個にも及ぶ大量の焼夷弾の残骸と、これを収納していた鋼鉄製の大型ケース、銀紙などが散らばっていました。

それほど、大量の兵器が使われたという訳です。

 

 また、銀紙は、爆撃機がレーダーに映らないように、電波の遮蔽を目的に、上空から大量に放出された電波妨害材です。

 

以下は、この時の様子です。

 

空襲警報が発令。

それも、すぐに解かれ、警戒警報に変わりました。

一安心 ・・・・と、再び、眠りについた矢先、突然、ドカーンという大轟音がとどろき、B29のエンジン音と、機体が大気に擦れる「シャー」という音が、耳に入ってきました。

 

あちこちに火の手が上がっていました・・・・

これは大変・・・・

空襲だ・・・・・・・・・

 

母は、私と、妹の二人の手を取り、防火用水で湿らせた毛布を頭から被り、必死で郊外に向かって逃げ出しました。

防火用水とは、空襲による火災を消火するために、家の門の横に設備されたコンクリート製の水溜めの事で、どこの家にも設置が義務付けられていました。

 

父は、家財道具を火災から守ろうと、家に残り、予め庭に掘ってあった防空壕に、衣類や、生活用品、を投げ込んでいました。 防空壕は、爆撃から身や物を守るために、庭に掘られた穴の事です。

しかし、結果は、焼夷弾による火の手が余りにも高温で、すべては、焼け焦げてしまいました ・・・・・・・

防空壕や、防火用水は、何の役にも立ちません。

 

幼い子供にとって、逃げるのは、息切れして大変でしたが、防空壕に入って留まるのは、反って危険だと、母は、二人の手を取って、走りに走りました ・・・・・

 

B29が低空で飛び、ザザーという、機体が強く空気を切る音が、耳をつんざきます ・・・・

 

高射砲はあるにはあったものの、射程距離が短く、敵機には全く届かず、また、低空飛行に対しては、飛行速度が速いため射的に追い付かず、見ていても、もどかしいだけ、という代物でした。

日本軍は優秀だと教育されていた子供たちにとって、現実は、悔しさだけが残るという事実でした。

 

爆撃下を必死で走り抜けた結果、やっと、郊外の水田地帯にたどり着き、地面に腰を下ろす事が出来ました。

 逃げてきた方角は、真っ赤な炎に覆われ、すべての家や建物は火の中にありました。

水田を超え、火災が、ここまで到達する訳はないのものの、恐ろしく、3人、抱き合って、身を震わせていました・・・・

 やがて、B29は立ち去り、静けさだけが戻ってきました。

ここから、4キロばかり離れたところに、本家があり、そこまで、歩いて行くことになりました。

この日は、快晴で大変暑い日でしたが、早朝だった事と、夢中だった事で、暑さを感じる事はありませんでした。

被災者は、大勢いましたが、途中、農家の方々が、大きな「お結び」を配ってくれ、頂く事が出来ました。

お米は、配給制で、日ごろは麦の入ったご飯が、やっと食べられる状況だったので、この白米の「お結び」は大変おいしく、子供にとって、まさに、感激でした。

 

 後刻の報告によれば、この高松空襲は116機のB29による1時間30分にわたる焼夷弾による絨毯爆撃で、市内の家屋はほぼ全焼、死傷者は1,400名とあります。

死傷者の多くは、町の西方にある栗林公園に逃げた人達で、裏手にある「紫雲山」の松の木の火災による熱風で焼け爛れたとのことです。

公園内の池の水は熱で干上がり、まさに灼熱地獄と化したのです。

 

通っていた栗林小学校の校舎は、死体置き場になりました。

父は、私を、校舎には連れて行きませんでした。

ショックを与えたく無かったからでしょう・・・・

 

 この規模の爆撃が、日本中の県庁所在地の都市で、毎日のごとく、繰り広げられていたのです。 まさに、一週間前、向いの岡山市が空襲に会い、高松からその有様を、くっきりと見ることがありました。

 

 昭和20年8月16日 日本敗戦

ポツダム宣言受託

新しい世界の到来

 

米国、自由、民主主義の国とはいえ、戦争では、非道な国に変わります。

 

 疎開先は、一か所に、何時までも滞在することはできないので、親類を何件か移動し、お世話になりました。

同じ村の中での移動だったので、学校は、変わることはありませんでした。

 しかし、物資がないので、教科書は一度に手に入らず、何冊かに分けて、配られる状況が続きました。 これも、裁断されていない、大判の用紙に印刷されたもので、自分で、ナイフでカットして、本に仕上げるものでした。

暫くして、この教科書も届かなくなり、授業は、先生の口頭による時間となりました。

幸か不幸か、担任の先生は、講談好きで、授業は、「森の石松、金毘羅さん詣で」、「堀兵、安兵、高田馬場の果し合い」、「忠臣蔵」 ・・・・など、まさに、毎日がお話の時間でした。

 教育は不十分で、自国語・日本語の教育も不十分でした。

言葉は、勉強するのに適切な時期があります。

高学年になってから勉強しても遅すぎるという現実があるように思われます。

講談が、日本語を代表するものではありません ・・・・

不幸な世代だ、というべきでしょうか ・・・・

 

 授業らしきものが再開されたのは、中学校になってからでした。

皮肉にも、それまで、敵国言語と呼ばれた英語が授業に加わりました。

道路を、米軍駐留軍のジープが走り抜けるようになりました。

この米国軍人が、道路で遊ぶ日本の子供たちに、チョコレートや、チューインガムを投げ与える場面もありました。 子供たちは、これに飛びついていました・・・・

敗戦国の、みじめな光景の一つです・・・・

 

英語の時間は、言葉そのものも、教科書の内容も新鮮であり、まさに、未知への誘いといった感がありました。日本語の不足分を少しは補ってくれたような気もします。

 

英語は、日本が国際社会に復帰するうえで、大変重要な役割を果たすことになりました。

井の中の蛙が、外に出たのです・・・・

 

 7月、暑い日が訪れると、毎年、以上のような、空襲と疎開先でのこと、戦後の出来事が思い浮かびます ・・・・

そして、このころの親御さんたちの苦労と忍耐を思い、心から、感謝の念を抱きます・・・・

 

 同じ出身地の妻は、奇しくも、高松市の空襲の一日前に郊外にある親類の家に疎開をして、難を逃れたと言っています。 妻の家は、前述の「紫雲山」の麓にあったので、疎開していなければ、惨事に合った恐れが十分考えられます。

 

高松空襲の事は、78年経った今日でも、つい、この前の出来事のように思い出されます ・・・・

平和で、何不自由のない現在を、心から、感謝する次第です。

と同時に、このような、辛い日々があったことを、若い人たちに教え、戦争の無いことの幸せ、平和を守ることの大切さ、を伝えたいと思います。

 このBLOGも、この思いで掲載しています。