夕涼み

 10月は、私の誕生月です。

この頃になると、夏の暑さからは大分遠ざかり、涼しくなります。

庭の、柿の実を穫り入れました。

今年はいつもより小粒ですが、甘さは確りしているようです・・・・、

 

生まれ故郷の高松市では、この頃、まだ残暑が厳しく、子供の当時は、上半身裸で運動場を駆け回っていた記憶があります。

この10月の気温が、今でも、私の季節感の基準になっています。

 

クーラーがまだない頃でしたから、夕方から夜半にかけては、屋外で、夕涼みです・・・・

屋外に、木製の涼み台が置いてあり、近所の大人達も集まってきて、よもやま話にふけります、

 長老が、子供達を相手に、昔話をしてくれます。

大抵、怪談や幽霊話など、怖い話です。

実際には存在しない話を、大げさに、恐ろしく語ってくれます・・・・

 

 高松には、伝説の狸が居て、これが、人間に化けて、人と共に住んでいます・・・・

戦争に行った狸もいます・・・・

8畳ほどの大きさに化けることもあります・・・・

大人は、ふざけて、ありえないような話をしますが、子供たちは、本気にして驚きをもって熱心に聞き入ります・・・・

空からは、月の光が降り注ぎます・・・・

月の光は、太陽の光線とは違って、もの悲しく、また恐ろしくも感じます。

これが、また、話を盛り上げます。

 

 遠くに、屋根の形をした、「屋島」の山が見え、流星が前を横切ったりもします・・・・

山を上り下りするケーブルカーの光が見え、話の背景を飾ります・・・・

時がゆっくりと流れ、現在のような、忙しさはありません・・・・

山頂は、平らで、海抜300メートルほどあり、地上とは違った涼しさ、一寸した贅沢感があります。

当時、めったに行けないので、眺めるだけの贅沢です・・・・

南西(春日川)より

屋島の遠景         出典: フリー百科事典   ウィキペディア

 

 小さい子供は、途中で、寝てしまいます・・・・

天日に干した夏ミカンの皮を、炭火の上に置き、その煙を蚊よけにします・・・・

夜半になって涼しくなるまで、夕涼みは続きます。

 この話を通じて、子供達は、誠実に生きることや、正義感を身に着けます・・・・

学校では学べません。インターネットは当時にはありません・・・・

もし、あったとしても、インターネットでは学べません。

 

現代の子供達には、このような時間的な余裕もありません。

残念ですね・・・・

 

飛行機の見える風景

飛行機の見える風景

―我が家の窓から―

 毎朝、目が覚めると、窓から、音響と共に、移動する物体が目に入ってきます。

成田空港に着陸する旅客機の姿です。

長時間のフライトの末、新しく訪問する未知の国への期待と不安に満ちた外国人客・・・・

やっと自国に帰り着き、ほっとしている日本人客・・・・

老人夫妻、若者、子供連れの夫婦・・・・

機内の、色々な様子を想像します・・・・

 

 今では、もう、ほとんど海外旅行はしませんが、この風景を見ていると、ひと頃、よく旅行していた頃のことが思い出されます。

 

 初めての海外旅行は、アカプルコ・・・・

外資系企業に勤めていた時、世界中に籍を置く企業のメンバーたちが集まる国際コンベンションの開催地でした。

 

チケット購入の時、予め、旅行会社からも知らされていた通り、メキシコの都市・アカプルコは、底抜けに明るい街で、会場付近のみならず周辺も安全な所です・・・・

現地の方々の接待もあって、そこでの滞在は、大変、気分の良い楽しいものでした・・・・

南国なので、二月とはいえ、気温は温暖で、明るい日差しのもと、身も心も爽快・・・・

 

コンベンションでの共通言語は英語です。

メンバーの中には、日本に住んだことがあったり、来たことがあったりした人が居て、銀座や新宿の飲み屋の話に花が咲きます・・・・

 

日本の飲み屋や、屋台、特に、つけで飲むという習慣は珍しい存在のようです。

旅館の突っ掛けで外出し、途中で、「はなお」で足が痛くなり、裸足になり・・・・

異国での初めての経験は楽しく・・・・

深夜まで飲んで・・・・

はしゃいで・・・・

 

日本は、安全で、異国人にとっても、安心していられることは、我々、日本人として、自慢でき、また嬉しいことです。

外貨を落としてくれるとなれば、より、歓迎・・・・ということにもなります。

ちなみに、ニューヨークでは、裏町を歩くと、街角から黒い手が出てきて、路地へ引き込まれ、身ぐるみ剝がされることも・・・・

 

 ニュージーランドマウントクック遊覧飛行も、記憶に残る楽しい経験でした。

遊覧飛行の途中で、氷原に着陸、これまで見たこともない風景です・・・・

 

アラスカのアンカレッジ、デナリ国立公園、ここでのマッキンレー山遊覧飛行

カナダのアサバスカ氷河の観光

そこを流れる冷たく、美味しい水も飲みました・・・・

 

アレッチ氷河

スイス南部のアルプスにあり、ユングフラウ、メンヒ、アイガーなどの山々に囲まれたヨーロッパ最長の氷河です。

2001年に、世界遺産に登録されました。

ここでは、氷河クルージングを楽しみ、船内で、船員が採取した氷河の氷をかじりました・・・・

 

色々、思い出します。

もっと、もっと、世界中を巡ってみたかったとも思いつつ・・・・

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高松大空襲

  1945年(昭和20年)7月4日未明、私たちの住む高松市に、米国爆撃機B29の来襲を告げる「警戒警報」、続いて「空襲警報」が発令されました。

警戒警報は、敵機が遠いところ、空襲警報は、敵機が近いところにいる、という通報です。

警戒警報は、長くゆっくりとしたサイレン、空襲警報は、短く、早く繰り返すサイレンです。

 

 空襲警報発令直後は、B29の爆音は聞こえませんでした。

市街地の襲撃は、焼夷弾によるもので、空襲と呼ばれていました。

焼夷弾は、日本の家屋のほとんどが木製であることから、破壊ではなく、火災を目的に日本爆撃用に特別に開発された爆弾です。

 ちなみに、欧州の戦争では、もっぱら、破壊用の爆弾が使われていたようです。

爆音が聞こえなかったのは、警戒を与えないよう、上空で、エンジンを止めて滑空していたからでしょうか ・・・・。

 

 しかし、突然、大爆音と共に、町中に火の手が上がり、家屋が燃え上がりました。

あっという間に、町中が火に覆われました。

そして、全てが灰になってしまいました。

一瞬の出来事、不意打ちの様相、でした。

 

空襲の後、狭い自宅跡には、10個にも及ぶ大量の焼夷弾の残骸と、これを収納していた鋼鉄製の大型ケース、銀紙などが散らばっていました。

それほど、大量の兵器が使われたという訳です。

 

 また、銀紙は、爆撃機がレーダーに映らないように、電波の遮蔽を目的に、上空から大量に放出された電波妨害材です。

 

以下は、この時の様子です。

 

空襲警報が発令。

それも、すぐに解かれ、警戒警報に変わりました。

一安心 ・・・・と、再び、眠りについた矢先、突然、ドカーンという大轟音がとどろき、B29のエンジン音と、機体が大気に擦れる「シャー」という音が、耳に入ってきました。

 

あちこちに火の手が上がっていました・・・・

これは大変・・・・

空襲だ・・・・・・・・・

 

母は、私と、妹の二人の手を取り、防火用水で湿らせた毛布を頭から被り、必死で郊外に向かって逃げ出しました。

防火用水とは、空襲による火災を消火するために、家の門の横に設備されたコンクリート製の水溜めの事で、どこの家にも設置が義務付けられていました。

 

父は、家財道具を火災から守ろうと、家に残り、予め庭に掘ってあった防空壕に、衣類や、生活用品、を投げ込んでいました。 防空壕は、爆撃から身や物を守るために、庭に掘られた穴の事です。

しかし、結果は、焼夷弾による火の手が余りにも高温で、すべては、焼け焦げてしまいました ・・・・・・・

防空壕や、防火用水は、何の役にも立ちません。

 

幼い子供にとって、逃げるのは、息切れして大変でしたが、防空壕に入って留まるのは、反って危険だと、母は、二人の手を取って、走りに走りました ・・・・・

 

B29が低空で飛び、ザザーという、機体が強く空気を切る音が、耳をつんざきます ・・・・

 

高射砲はあるにはあったものの、射程距離が短く、敵機には全く届かず、また、低空飛行に対しては、飛行速度が速いため射的に追い付かず、見ていても、もどかしいだけ、という代物でした。

日本軍は優秀だと教育されていた子供たちにとって、現実は、悔しさだけが残るという事実でした。

 

爆撃下を必死で走り抜けた結果、やっと、郊外の水田地帯にたどり着き、地面に腰を下ろす事が出来ました。

 逃げてきた方角は、真っ赤な炎に覆われ、すべての家や建物は火の中にありました。

水田を超え、火災が、ここまで到達する訳はないのものの、恐ろしく、3人、抱き合って、身を震わせていました・・・・

 やがて、B29は立ち去り、静けさだけが戻ってきました。

ここから、4キロばかり離れたところに、本家があり、そこまで、歩いて行くことになりました。

この日は、快晴で大変暑い日でしたが、早朝だった事と、夢中だった事で、暑さを感じる事はありませんでした。

被災者は、大勢いましたが、途中、農家の方々が、大きな「お結び」を配ってくれ、頂く事が出来ました。

お米は、配給制で、日ごろは麦の入ったご飯が、やっと食べられる状況だったので、この白米の「お結び」は大変おいしく、子供にとって、まさに、感激でした。

 

 後刻の報告によれば、この高松空襲は116機のB29による1時間30分にわたる焼夷弾による絨毯爆撃で、市内の家屋はほぼ全焼、死傷者は1,400名とあります。

死傷者の多くは、町の西方にある栗林公園に逃げた人達で、裏手にある「紫雲山」の松の木の火災による熱風で焼け爛れたとのことです。

公園内の池の水は熱で干上がり、まさに灼熱地獄と化したのです。

 

通っていた栗林小学校の校舎は、死体置き場になりました。

父は、私を、校舎には連れて行きませんでした。

ショックを与えたく無かったからでしょう・・・・

 

 この規模の爆撃が、日本中の県庁所在地の都市で、毎日のごとく、繰り広げられていたのです。 まさに、一週間前、向いの岡山市が空襲に会い、高松からその有様を、くっきりと見ることがありました。

 

 昭和20年8月16日 日本敗戦

ポツダム宣言受託

新しい世界の到来

 

米国、自由、民主主義の国とはいえ、戦争では、非道な国に変わります。

 

 疎開先は、一か所に、何時までも滞在することはできないので、親類を何件か移動し、お世話になりました。

同じ村の中での移動だったので、学校は、変わることはありませんでした。

 しかし、物資がないので、教科書は一度に手に入らず、何冊かに分けて、配られる状況が続きました。 これも、裁断されていない、大判の用紙に印刷されたもので、自分で、ナイフでカットして、本に仕上げるものでした。

暫くして、この教科書も届かなくなり、授業は、先生の口頭による時間となりました。

幸か不幸か、担任の先生は、講談好きで、授業は、「森の石松、金毘羅さん詣で」、「堀兵、安兵、高田馬場の果し合い」、「忠臣蔵」 ・・・・など、まさに、毎日がお話の時間でした。

 教育は不十分で、自国語・日本語の教育も不十分でした。

言葉は、勉強するのに適切な時期があります。

高学年になってから勉強しても遅すぎるという現実があるように思われます。

講談が、日本語を代表するものではありません ・・・・

不幸な世代だ、というべきでしょうか ・・・・

 

 授業らしきものが再開されたのは、中学校になってからでした。

皮肉にも、それまで、敵国言語と呼ばれた英語が授業に加わりました。

道路を、米軍駐留軍のジープが走り抜けるようになりました。

この米国軍人が、道路で遊ぶ日本の子供たちに、チョコレートや、チューインガムを投げ与える場面もありました。 子供たちは、これに飛びついていました・・・・

敗戦国の、みじめな光景の一つです・・・・

 

英語の時間は、言葉そのものも、教科書の内容も新鮮であり、まさに、未知への誘いといった感がありました。日本語の不足分を少しは補ってくれたような気もします。

 

英語は、日本が国際社会に復帰するうえで、大変重要な役割を果たすことになりました。

井の中の蛙が、外に出たのです・・・・

 

 7月、暑い日が訪れると、毎年、以上のような、空襲と疎開先でのこと、戦後の出来事が思い浮かびます ・・・・

そして、このころの親御さんたちの苦労と忍耐を思い、心から、感謝の念を抱きます・・・・

 

 同じ出身地の妻は、奇しくも、高松市の空襲の一日前に郊外にある親類の家に疎開をして、難を逃れたと言っています。 妻の家は、前述の「紫雲山」の麓にあったので、疎開していなければ、惨事に合った恐れが十分考えられます。

 

高松空襲の事は、78年経った今日でも、つい、この前の出来事のように思い出されます ・・・・

平和で、何不自由のない現在を、心から、感謝する次第です。

と同時に、このような、辛い日々があったことを、若い人たちに教え、戦争の無いことの幸せ、平和を守ることの大切さ、を伝えたいと思います。

 このBLOGも、この思いで掲載しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

スポーツクラブの仲間

 昔、スポーツクラブで一緒にエアロ ビクスをやっていた友人ご夫妻と、久し振りにお会し、昼食を共にしました。

 

 友人ご夫妻は、若々しく、余り、変化しておらず、先方からも、私たちに同じ印象を持ったようで、嬉しい思いでした。

 場所は違うものの、スポーツクラブ通いはずっと続けているようで、健康維持のために、運動の継続は大変重要だと、強く印象付けられました。

 双方、ずっと、スポーツクラブ通いを続けていること・・・・

 先方は、今も海外旅行を続けていること・・・・・・

 私たちは、我孫子市が開催する、「我孫子ゴルフ倶楽部を散策する 春の観桜会 桜を見る会」 に参加したこと・・・・

秋にも、「菊を見る会」 が開かれること・・・・

 昔、犬の散歩で、飼い主同士が、犬たちの介在で、知り合いになった事・・・・

この人たちは、本当の名前は知らず、お互い、犬の名前で呼び合っていた事。

私たちは、「ロンちゃんパパとママ・・・・」

向こうは、「リクちゃんパパとママ」

「フーちゃん」 もいました。.

今は、もう、犬たちは いないけれど・・・・

思い出は、確り、残っています・・・・

 

 飲み会、今後、さらに、他の仲間にも輪が広がっていけば嬉しいね・・・・-

と言いながら、散会となりました。

米寿と健康

 今年10月に、私は、満年齢で米寿(88歳)を迎えます。

以前、勤めていた会社のOB会からは、今年、新年早々に祝詞の手紙と、鉢植のお花をいただきました。

これまでに、前立腺、大腸、胃のがんを患いましたが、いずれも、外科手術などを経て、何とか、無事に乗り切る事が出来ました。

主治医の先生によれば、厳しい手術を乗り切れたのは、日ごろ、運動で体を鍛えているからだとのこと・・・・

先生方の技術とお力添えに対し、敬意と感謝の意を表すと共に、これからも、可能な限り運動を続け体力の維持に努めていきたいと、心を新たにするところです・・・・

 

 確かに、スポーツクラブ通いを始めたのは1985年でしたから、今年で、38年になります。

スポーツクラブの壁に掲げられている会員の来場回数も3,000回を超え、殿堂入り手前です。残念ながら、スポーツクラブの記録用のコンピュータが壊れ、更新がされなくなってしまい、今は、正確な回数は分からなくなってしまいました。

しかし、目的は、回数ではなく、健康を保つことなので、今は、回数は気にしていません・・・・

 

 フロアーでのストレッチ体操、マシンを使っての筋肉運動、スタジオでのストレッチ体操やラテン系のエアロビクスなど・・・・

色々あって、退屈はしませんが、やはり、大きな音量のもとで大きく動ける、ダンス系のエアロビクスは楽しいですね・・・・

 

 元々は妻がやっていたもので、これに同行するようになったもの・・・・

大勢の人と、一緒になり、発散できるのは嬉しい限りです・・・・

スポーツクラブ通い、元気でいられる限り、続けたいと思っています。

桜を見る会で 我孫子ゴルフ倶楽部を歩きました

 ボランティア「我孫子の景観を育てる会」が毎年開催する「市民観桜会」と呼ばれる

桜を見る会があります。

 

 今年は、20回目の開催だそうで、4月3日、名門ゴルフ場「我孫子ゴルフ倶楽部」で開催されました。

 この日、ゴルフプレーは休業日で、観桜は、16番ホール前の受付で記帳した後、14番、17番、12番、13番ホール、を歩行で巡りました。

 

私は、妻と共に、初めての参加でしたが、快晴に恵まれ、気温も、暑くなし寒くもなく・・・・

快適な半日でした。

 

桜花、染井吉野が満開で、少し、散り始めた頃・・・・

背景の松林と重なり、ピンクと緑のコンビネーションが辺りを引き立てます。

シデコブシ、野村もみじといった、趣を異にする木々も点在します。

 

コースの途中で、我孫子コカリナサークルのメンバーたちが、優しい音色を奏でます。

オカリナに似た、楽器の響きです・・・・

目と耳、体、全体で、春、むしろ初夏の感触が伝わってきます・・・・

 

フェアウエイの芝の上で、寝っ転がっている人、おやつを食べている家族、追っかけっこをしている子供たち・・・・

桜吹雪の下で、参加者、夫々が、思いのまま、楽しんでいる姿が見られ、まさに春爛漫の景色を堪能できました。

 

 秋には、紅葉を見る会が開催されるとのことです・・・・

市の広報で、発表されるので、見逃さないでほしい・・・。

との案内です。

ぜひ参加したいと思っています・・・・

 

写真1 バンカーとフェアウエイ

 

写真2 桜とフェアウエイ

 

写真3 松林とフェアウエイ

 

写真4 松林と桜